久々のコラムになってしまった。
できるだけ咀嚼した内容でアメブロには装いについてのポイントを記しているつもりです。コラムについては、少しマニアックな内容にしていこうと考えておりながらも、なかなかこちらまで意識が向かないまま1年近く過ぎてしまったのが事実。
気が付けば、私も本年8月で45歳を迎える年齢に達した。本当に時が過ぎゆくのが早く感じる。若かりし時よりも、常に実年齢の10歳以上老けて見られ続けた私。未だに50歳半ばくらいの雰囲気を醸し出しているようだ。これについては、無意識にそういう演出をするようになってきてしまった。
小学校高学年で声変わりをした私は、父親の同僚からの電話に父親本人と間違われていた。声色こそWEB上ではお伝えできないのだが、この頃から運命づけられていたのかも知れない。
多くの男性方がファッションについて意識をし出したのと同様、私も『異性』への関心からファッションを追求しだした1人。19歳になるまで異性との恋愛経験などなく、興味さえ持ったことが無かった私も、大学の友人たちとの異性ネタに入っていけず、このままでは危ういと感じた故の初めの第一歩としての実践がファッションであった。ファッションを通じて手に入れたものは『自信』という目に見えない物。初めての彼女ができるまでに、さほど時間もかからなかったが、それまでに周囲の見る目が大幅に変わっていったのが、今も記憶に残っている。
それ以来、洋服の虜になって25年が経とうとしている。あれから体力は衰え、身体も弛む一方でしかない。そういう中でも装いに留意し、誉め言葉を頂戴することもある。装いを追求し続けた結果、25年前と確実に変わっているのは、あらゆる年代の異性からの誉め言葉が頂けているということ。コンプレックスに悩み続けていたが、ますます感じるのは生まれ持った資質が全てではないということ。むしろそれ隠さず活かし続けることで、どうにでもなるということを学んだ。

多すぎる白髪に悩み、染めることで若さを保とうと努めてきたが、それも一切止めた。同時に言われ始めた言葉が『ダンディ』であった。
深くはその意味を追求したことが無かったし、TVや雑誌などの情報を基に作られたイメージ『中年男性の色気』のような、誉め言葉の一種として受け止めていた。何度かお褒めいただく内に、そもそも『ダンディとは何なのだろう。』という疑問が芽生えてきたのである。ここから『ダンディ』『ダンディズム』への追究が始まるのである。
結論から言うと、決して誉め言葉だけに使われるものではないようだった。源流をたどっていくと、それは19世紀の英国に始まっている。当時の英国貴族社会では、フランスで起きた革命後の、急激な民主化による階級社会の崩壊を目の当たりにし、自分たちのアイデンティティも失われていくのではないかと、恐恐としていた時期である。
18世紀半ばから19世紀かけて起こった産業革命により、ブルジョワ階級の影響力も大きくなり始めていた時代。そんな中で貴族の取ったアイデンティティを保持するツールが、装いと振る舞いであり『ダンディズム』という排他主義的概念である。その多くは美酒美食・豪奢でスキャンダラスな生活に明け暮れ、最終的に民主化の波には抗えずに凋落していった彼ら。
そういった事柄を追求して行くと、『ダンディ』という言葉は決して誉め言葉ではない。事実英国本国では誉め言葉どころか、揶揄する言葉として受け取られるのは心得ておくべきだろう。ただ、日本においては商業的にも利用されてきた趣きが強く、言葉を発する側もここまで知ったうえで『ダンディ』という言葉を深く認識しているとは思えない。また、これを深く心得ておられる方は、決して『ダンディ』という言葉を軽々しくは使わないだろう。

それでも私は誉め言葉として受け止めるべきだと感じる。
人生はそれぞれが創り出していくものと仮定した場合、負の遺産をなぞらえて発展させていくことが人間には可能だからだ。アイデンティティのあくなき保持にその身をやつした彼らの人生からは、確かに負の側面はあまりにも大きすぎる。だがその反面、現代の男性の在り方に必要なエッセンスもたくさん散りばめられている。
視点をもっと大きく捉えれば、彼らの残したものは現代の男性に光明をもたらしてくれるものと思うのだ。自己保身のアイデンティティを、調和のためのアイデンティティの発展に、多くの方と触れ合いながら絆を紡いでゆくための、装いと振る舞いのエッセンスの体現。こういったことを自然と実践されていらっしゃる方は、既に世の中には多くいらっしゃるのではなかろうか。
語源本来の『ダンディズム』に照らし合わせると、『ダンディ』足りえないのかも知れないが、上書きして行けばいいと感じる。音楽にせよファッションの流転にせよ、新たなジャンルの創造や上書きは常々行われ、全く両極に位置するものがどんどん融合もしてきている。宗教やスピリチュアル、科学といったものも同様。
一概に揶揄した言葉として封印してしまうのは、あまりにももったいなく感じるし、ある種人間性の否定にも繋がるのではないかとさえ思う。
聖なる存在でありながら、性(さが)を孕む存在なのが人間という生き物。
悪しきもの醜悪なものに蓋をしているだけでは、新たな概念など創造もできないのではないかと感じる。そこから学ぶべきものは何かを抽出し、昇華させゆくことが次代への橋渡しとなることを祈る。
〜終
※不定期で続けて行きます。